地球上で最大の大陸(ユーラシア大陸)と最大の海洋(太平洋)が接する場所に、神秘的な島国が二つある。北にある島は四季がはっきりしていて、富士山を最高峰とする日本であり、南にある島は気候が暖かく、玉山を最高峰とする台湾である。両国の間では、東シナ海を挟んで、文字での記録よりずっと昔から様々な交流があった。文字で記録が残された最古の文書によれば、少なくとも四百年前から、両国は文字をとおしてお互いを描写し合い、各時期に色々な形式で様々な内容の記録が残された。日本人は台湾の漢民族と原住民について、そして台湾人は日本からやってきた官僚や百姓について、それぞれ異なった記録をしている。異民族の記録はまるで鏡に映されたイメージであるかのように、台日は相手の書き写しをとおして己のアイデンティティを認識し、自分自身の特質を理解し、またそれぞれ各自で想像したのである。しかし、こういった記録も時には歪曲されたり、異なったものとして表現されたりすることがある。このエリアには、文学者によって創作された詩や歌、小説もあれば、船長や政治家・人類学者らによって書かれた随筆の作品もある。真実のものから虚構のものまで、内容は賞賛、風刺また恋愛、感傷的なものなど多岐にわたって網羅されている。
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日本人と台湾人の間での接触はオランダ、スペインの統治時代前に遡ることができる。例えば1593年、豊臣秀吉が使節を台湾に派遣し、原住民を服従させようとしたが、有名な「豊太閤の新山国勧降状」だけを残し、台湾の原住民についての記録は一切行われなかった。また、清国統治時代には、北海道の船長が台湾の東部に漂着し、文字だけでなく挿絵も付された記録が残された。台湾出兵(牡丹社事件)の前後も、軍人や従軍記者らによって書き記されたテクストがある。そして当然のように、日本統治時代に入ると、さまざまな階級の官僚が台湾で就任し、さまざまな職業の庶民も台湾にやってきた。そのほかにも、日本帝国が新たに領土に治めた植民地には、多くの日本人が短い旅行をしに来た。このように、日本人によって書き記された台湾人に関する創作が相次いで発表された。異なる時期に書き記された日本人による台湾人についての記録は、着眼点をはじめとして角度や内容、評価などがそれぞれ異なっていた。ここからは各時期の日本人によって書き記された台湾原住民、漢民族に関するテクストを展示する。
南島の風景•台湾歴史博物館 提供このエリアでは、それぞれ船長や官僚、軍医、漢文学者、人類学者によって書き記されたテクストが展示されている。これらは台湾の原住民の素朴で勇ましく、力強いイメージが表現されている随筆や古典詩である。このコーナーでは最も早く創作された『享和三年癸亥漂流臺灣チョプラン島之記』を展示している。1803 年、北海道の函館から出航した「順吉丸」という商船が、嵐に遭遇し、台湾の東岸にあるチョプラン島(今の花蓮秀姑巒溪口付近)に漂着した。船長の文助は現地で四年間暮らした後に再び帰郷し、秦貞廉によって文助の口述が聞き取られ、書き写され、挿絵まで付された。このほかに展示されているものも、原住民の衣食住、歌謡、風習について描写されたものであり、これらの作品をとおして当時の日本人が台湾の原住民についてどのように認識していたのか、また原住民の様々な生活ぶりについて覗いてみよう。
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「奇特なる本島人」?
台湾の漢民族は、日本統治時代の文献では「土人」や「本島人」と呼ばれており、言葉としては主に台湾語や客家語を話していた。その中には、すでに漢化されていた平埔族の人々もいた。台湾と日本は同じように漢字文化圏に属するため、日本人は筆談で漢民族とコミュニケーションができた。しかし日本人は台湾の風習との違いに驚嘆し、『台湾日日新報』には度々「奇特なる本島人」というタイトルの記事が掲載された。海を渡って台湾にやってきた漢文詩人も、台湾の人々の風習をテーマに詩を詠っていた。そのほかには、台湾の婦人がお風呂を嫌っていることを面白がって詳しく記事を書いたり、小説でも様々な登場人物をとおして台湾人を描写していた。各テクストは台湾の漢民族社会における男女間の礼儀作法や、日本人とは異なる生活習慣など様々なテーマで描かれていた。
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引き上げ後の余韻
多くの在台日本人は、戦後、相次いで日本に引き揚げて帰郷したが、その記憶をたどって台湾人とその土地に対する感情や、台湾で暮らした時の生活経験を書き記した優秀な作品がある。このコーナーでは日影丈吉「消えた家」や大鹿卓「野蛮人」、坂口䙥子「番婦ロポウの話」といった短編小説が展示されている。そのほかには、湖島克弘の長編小説『阿片試食官』と芹田騎郎の絵本『ユーカリの林で』などがある。日本の作家たちは終戦前、当時の軍国主義体制下における言論統制によって自由に書けなかったが、終戦後、国民主権の政治体制に変ったことによって、これまでの台湾の統治に対する反省も含め、いままでよりももっと様々な角度から台湾の原住民と漢民族を表現したり評価したりするようになったのである。
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台湾の原住民は早い時期にすでに日本の商人や漁師と接触していたはずである。オランダ統治時代においては、日本の商人がオランダの総督を人質にした「濱田弥兵衛事件」(タイオワン事件)もある。しかし、ほとんどの日本人に対する記録は日本統治時代に入ってからのものである。日本統治時代の台湾で語り継がれていた「こっちは花を挿すが、彼は草を挿す(新年に飾り藁を挿すことから)。こっちは赤ん坊を抱くが、彼は犬を抱く。こっちはゆっくり歩くが、彼はいつも急いで走る。こっちは轎子に乗るが、彼らは糞出し(今で言う塵取り、帚)に乗る(人力車の形が帚に似ていることから)。こっちは赤木の床で寝るが、彼は厠の隣で寝る(日本人の昔の宿舎ではトイレが部屋の隣にあったことから)」という童謡があるが、これは台湾人と日本人の生活習慣の違いを表しているほか、日本人を皮肉ったものでもある。台湾に滞在していた「内地人」の総人数は、日本統治の後期になると、40万人あまりにも上った。台湾人が日本人に対する愛と恨みの混ざった感情を描写したものには様々なものがある。古典文学においては漢文詩人による総督を賞賛するものや、「内地」での観光を描写した詩作があり、新文学においては、当時、取り締まりの厳しかった警察から始まり、人徳のある教師や、礼儀正しい庶民、大和撫子のような女性などが描写されている。このコーナーは主に二つのテーマに分かれており、一つは日本統治時代に台湾人が日本の官僚と庶民を描いたものと、戦後の台湾の作家がテクストをとおして日本人を描いたものである。
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総督や警察官らの官僚に対する描写
台湾を統治していた際に、官僚のトップに立っていたのが総督であるが、初代の樺山資紀から最後の代の安藤利吉に至るまで、全部で19人いた。台湾の漢文詩人の作品においては、人民を愛し統治に尽力し卓越した功績をもつ者として好印象を持って描かれることが多かった。そして官僚の最下位にいるのは台湾の人々に「殿」と呼ばれている警察官であった。「杏仁茶の出店をやっていたら、警察官が現れたので逃げ回ったところ、茶碗を四つ、五つ割ってしまった、警察官に捕まえられて警察局に連れていかれ、両足をぴったりと揃えて、警察官殿、もうやらないから勘弁して」というような台湾歌謡がある。この歌謡は日本の警察官の厳しいイメージを表している。台湾の新文学の中には、賴和や楊守愚、陳虛谷、蔡秋桐らの作品においても似たような表現が見られる。しかし、その中でもわが子のように人民を愛する警察官も描かれていた。もっとも知られているのは、嘉義県東石郷の富安宮に祭られている「義愛公」のモデルである森川清治郎や、作家の楊逵と深い友情で結ばれていた入田春彦である。
様々な職業の百姓の描写•台湾歴史博物館 提供1895年、台湾が植民地になってからは、日本から派遣されてきた官吏のほかにも、一般庶民も台湾で生活を営んでいた。台湾の文学者の中にも「内地」の日本に行って旅をする人がおり、日本の庶民との触れ合いをとおして、色々な文学作品が生まれた。日本では七世紀にすでに「大化の改新」があり、19世紀には「明治維新」も行なわれた。その文明の積み重ねと社会の進歩、現代化には、台湾とは大いに異なった社会的特質があった。人々の全体的な性格も台湾の人々とは大いに違った。このコーナーでは、漢詩や随筆、小説などを展示し、仕事の勤労ぶりや礼儀正しさといった日本の人々に対する様々な表現を示した。特に、日本人女性と台湾人女性の違いは特に印象深いものがある。
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台湾の戦後文学作品における日本人の描写
戦後、政府は教育やマスコミをとおして、台湾人に向かって改めて日本人に対するイメージを操作しようとしたが、一般の人々には日本人に対して様々な想像と記憶が残されていた。台湾の戦後の小説に登場する日本人の登場人物には商人、警察官、軍人、旅人、人類学者などがいる。その中でも、葉石濤の随筆に登場する親切な日本人の隣人や、李喬『寒夜三部曲』に登場する勇ましい日本軍人、王家祥『Lamada sinsinとDaho Aliに関して』においてブヌン族に共鳴して現地の部落に溶け込む森丑之助など、肯定的に書かれた人物が多くいる。その一方で、日本統治時代に原住民の部落にいた警察官や、戦後の台湾で買春をする日本人の男性など、批判を込めた創作もある。
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