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葉葉石濤『葉石濤全集』第9冊、2008年。
この本に収録されている随筆である葉石濤『左鄰右舍的日本人(隣の日本人)』の初出は、1992年8月31日『中國時報』である。作者は、幼い頃に家の近くに日本人が開いた布屋と雑貨店での思い出を描いている。葉は「彼らのことを異民族だと思ったことは一度もなかった。とても懐かしかった。」と述べている。葉石濤(1925〜2008)は台南生まれで、日本統治時代に西川満が主宰した雑誌『文藝臺灣』の編集助手を担当していた。戦後、小学校の教諭となり、五〇年代に白色テロによって投獄され、六〇年代に再び作家活動を再開した。著作には批評『臺灣文學史綱』や小説『紅鞋子(赤い靴)』『臺灣男子簡阿淘(台湾人の男性簡阿淘)』『西拉雅族的末裔(シラヤ族の末裔)』などがある。
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呂赫若『清秋』、 1944年。許素蘭寄贈。
この本は作者の最初の作品集で、「清秋」などの七つの短編小説が収録されている。「鄰居(隣人)」においては、「私」の隣人、田中さんという登場人物が生き生きと描かれている。「四〇歳前後で、たくましい感じの男で、坊主頭で、鋭い目をしている。髭を剃った後でも青髭が残り、体格のでかい男である。袖口から毛深い腕を出して、畳の上に立っている時はとても怖く見えて、病弱の私はいつも彼のことをびくびくして、何を言ったのか聞く余裕などなかった」。呂赫若(1914~1951)は、本名呂石堆で台中潭子生まれで、「台湾一の才子」と呼ばれている。
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賴和「一桿「稱仔」(一竿のはかり)」『臺灣新民報』第92、93號,1926年2月。コピー。
この短編小説においては、取り締まりの厳しい一人の警察官が描かれている。彼は秦得参という登場人物の「はかり」を取り締まって、それを投げ捨てて「畜生」と罵った。秦は憤ったあまりに警察官と殉死することを選ぶ。作者の賴和(1894〜1943)は彰化人で、台湾総督府医学専門学校を卒業し、1917年に賴和医院を開設し、翌年、廈門博愛医院に就任した。二年後に台湾に戻り、医師の仕事以外にも、台湾文化協会に入って台湾新文化運動に参加した。『臺灣民報』文芸欄を担当し、積極的に台湾新文学運動の担い手となった。新進作家を育てるのに尽力し、「台湾新文学の父」と呼ばれている。
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楊逵口述、戴国煇・内村剛介インタビュー、葉石濤中訳「一個臺灣作家的七十七年」『臺灣時報』1983年3月2日。コピー、楊建寄贈。
この小説は、のちに陳芳明『楊逵の文学生涯』(台北:前衛出版社、1995)と『楊逵全集』に収録されている。日本人の警察官、入田春彦は作家の楊逵を監視するようにと命じられるが、日が経過するにつれて、弱者に同情する楊逵の姿勢に共鳴し、支援するようになる。そのため、上から処罰を受けて自殺をしてしまう。楊逵(1906〜1985)の本名は楊貴で、台南の新化生まれである。小説「送報伕(新聞配達夫)」で文壇にデビューした。積極的に社会運動に参加し、戦後、白色テロに巻き込まれ、一〇年間余り投獄され、作品には「壓不扁的玫瑰(つぶれないバラの花)」『鵝媽媽出嫁(鵝母さんが嫁に行く)』などがある。
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鍾肇政『插天山之歌(插天山の歌)』創作メモ、手稿。1960~1970年代に成立。鍾肇政寄贈。
鍾肇政の「台湾人三部曲」の第三部において、主人公「陸志驤」は東京に留学していた間に反政府運動に参加したため、彼が台湾に戻ってきても日本特別高等警察(戦後には「特務」)によって追われている姿が描かれている。そして意志が強く、まるで猟犬のような日本警察官が登場している。「すぐさま、誰かが腰を低くして出てきた。頭を上げてみると、桂木警部だった。国民服を着て戦闘帽をかぶっていた。脛には脚絆が巻かれており、顔が黒く光っていた。顔中が髭だらけだった。」鍾肇政(1925~)は桃園の龍潭生まれで、長編小説『魯冰花(ルービンファ)』で知られている。大河小説のブームを引き起こした張本人でもある。
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謝里法『紫色大稻埕』手稿、2006~2008年。謝里法寄贈。
この本は台湾の美術史をテーマにした長編小説で、顔水龍に関心を寄せている岡田三郎助先生のほかに、李石樵に似顔絵を描かせた第一八代総督、長谷川清など、「内地人」が多く登場している。「絵を描いていく中で、李石樵は長谷川総督の顔から意気揚々の傲慢さと隠しきれない淋しさを感じた」。謝里法(1938〜)は台北大稻埕生まれで、台湾師範大学美術科を卒業し、母校の教授もしていた。芸術史の論著には『日據時代臺灣美術運動史』、『臺灣出土人物誌』などがあり、小説には『紫色大稻埕』、『変色的年代(変色の時代)』などがある。