決戦期の想像の共同体
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午後、将軍の実家に戻ると、居間の整理に着手した。まず、観音像を取り外して、明治天皇の遺影を取り付けた。次は普陀岩を取り外して日本国旗を飾った。仏法の対句を外して、天皇の「教育勅語」を貼りなおした。

— 呉新栄1938年5月29日『呉新栄日記』

1941年、大東亜戦争勃発以来、「文化翼賛」のスローガンのもとで、帝国主義の拡大は直接的に台湾社会と台湾の文壇に影響を与えており、作家たちは「皇民文学」を書かざるを得なくなった。こういった時局において、人々の生活にも大きな変化がもたらされた。皇民化運動を遂行する日本文学報国会や台湾文学奉公会は文壇の活動の舵を取っていた。楊逵が「大東亜何億の人々がみな、強制されるのではなく、自ら尽力しようとする日が来たらどれだけいいのだろう」と語っているように、台湾作家は是が非でも政策文学を完全に回避することはできなかったのだ。

このような時局において、政治と関係ない通俗的な文芸作品は、『風月報』や『南方』などの文芸欄をとおして掲載されていた。例えば呉漫沙の『韮の花』などはその例の一つであり、彼らの作品は読者に愛され、広く読まれていたが、東亞親善の代表の一つと見なされていたのだった。