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『フォルモサ』2号、1933年。黄得時寄贈。
この雑誌は1933(昭和8)年7月に東京で創刊されたもので、当時の台湾芸術研究会のメンバーによって発行された。そのメンバーは皆、台湾の留学生で、蘇維熊、王白淵、呉坤煌、巫永福などがいた。作風は多種多様で、郷土文学および社会主義思潮についての批評もあった。台湾の文芸を振興するためには芸術的な生活を追求するほかないと強調されている。合計3期発行されており、1934年に廃刊となった。
第二号は1933年12月の末に発行され、王白淵「上海を詠める」、呉坤煌「臺灣の郷土文學を論す」、劉捷「一九三三年の臺灣文學界」、張文環「みさを」などが収録されている。
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謝春木『臺灣人は斯く觀る』、1944年。謝里法寄贈。
謝春木(1902〜1969)は本名、謝南光で、ペンネームは追風で彰化生まれである。1921年、日本東京高等師範文科に留学し、1922年に新文学の芽が出はじめた際には小説「彼女は何処へ」を発表した。台湾民報の記者を勤めたことがあり、台湾文化協会や台湾民衆党の活動にも参加していた。
この本は「臺灣人は斯く觀る」、「臺灣人の要求」、「日本主義の沒落」の三部構成になっており、1944年6月に台湾民報社から発行された。台湾民衆党の党員として、謝は系統的に民衆党の発展と思想の転換を説明し、日本の植民地統治を打倒し、民族の解放をするためには革命するしかないと述べ、また、中国の革命と同盟することで本当の勝利を勝ち取るべきだと主張している。
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『臺灣民報』創刊号-26号合本,1923年。劉克全寄贈。
雑誌『臺灣青年』は1920年の初めに日本の東京にいた台湾留学生によって創刊されたもので、のちに『臺灣』と誌名変更され、1923(大正12)年に『臺灣民報』が発行され、1927年8月1日に発行元は台湾に移った。1930(昭和5)年3月に『臺灣新民報』に誌名変更し、当時の官報『臺灣日日新報』と二大勢力となって争っていた。
「台湾人のために声をあげる」新聞紙として、創刊の言葉においては「我々は今日の台湾社会において平等に欲している。生き残るためには民衆のための言論媒体を作らないと行けない。今は社会を教育し、大衆を呼び起こす時だ」とこの新聞の性格と目標が掲げられている。この系列の新聞は戦火のため各地に散在しており、黄天横が保存している1932年4月のもののほかに、2015年に国立台湾歴史博物館による依頼で、本館と六然居資料室との共同で1932年4月から1940年5月までのものを復刻し、12月に出版した。
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呉新榮、『震瀛自傳』第一冊、1948年前後。呉新榮の家族寄贈。
呉新榮(1907〜1967)は字、史民で号、震瀛である。ペンネームは兆行と琑琅山房主人であり、台南生まれである。台湾総督府医学専門学校を卒業した後に、1925年に日本に渡って医学の勉強をした。主宰していた雑誌には『蒼海』『南瀛會誌』などがある。1928年に、社会主義思想を持つ東京台湾青年会と日本共産党が率いた台湾学術研究会に入会したため、投獄された。台湾に帰ってから台南の佳里で医師として開業したほか、創作も続け、文化・政治運動にも多く参加した。
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小逸堂第二回同窓会記念写真、1942(昭和17)年1月22日。賴和文教基金会提供。
小逸堂とは、漢文学堂のことで、彰化南壇(今の南山寺)のそばに開設されていた。賴和(1894〜1943)の年譜によると、1903年、当時一〇歳だった彼はこの学堂に入り、漢文学者黄倬其(黄漢)の生徒となった。同期には詹作舟、陳呉傳などがいた。賴和は「小逸堂記」において、先生(黃倬其)の指導のおかげで、私達生徒は皆和気藹々で、知らないうちに溶け込んでいた」と述べている。ここで展示されているのは、小逸堂の第二回の同窓会の写真である。座っている人々の左から楊以專、王麗水、詹阿川(詹作舟)、陳呉傳、後列左から張參、石榮木、詹樁伯、黃文陶、魏金岳、賴和、石錫烈である。
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洪棄生「寄鶴齋詩草乙未以後批晞集」手稿、1895〜1905。洪小如捐寄贈。
洪棄生(1866〜1928)は、本名攀桂(字月樵)で彰化生まれである。日本統治時代に洪繻に改名(字棄生)し、抵抗の意志を表明した。なかば隠居しており、漢文学を教え、詩と酒に心酔した。台湾総督府の命令を無視していた。
洪棄生は字が達筆で、ここで展示されているものは彼の直筆で、宣紙の糸綴じの冊子に書かれている。洪は生涯、無数の詩作を書いたが、この詩集は彼の代表作と言えるものだろう。作品には1895(清光緒21)年から1905(明治38)年までのものがあり、五言古体詩が多く、時代が反映されており、国家が滅びていく様子が描かれている。詩集の第一首は「臺灣土匪記事」であり、清朝の最後の無能さと滅亡、そして義士たちの切なさと犠牲を描いている。行間に憤りと悲痛さが溢れている。この手稿は本文学館の重要作品でもある。