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『華麗島』創刊号、1939年。黄得時寄贈。
この雑誌はわずか一期だけが発行された。現代詩がメインで、「台灣詩人協会會」のメンバーである西川満、北原政吉が発行者兼編集を担当していた。この雑誌は西川満が文壇における人脈を台湾人の作家まで拡大したあとの初歩的な試みだった。現代詩のほかには随筆、小説などもある。投稿者には台湾人の作家たち、水蔭萍(楊熾昌)、王育霖、楊雲萍、黃得時、郭水潭、龍瑛宗らがいた。
同年、「臺灣詩人協會」が改組し、「臺灣文藝家協會」に拡大すると同時に機関誌『文藝臺灣』も発行し、「華麗島」の延長版だと見なされている。
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『台灣文化』創刊号、1946年。秦賢次寄贈。
この雑誌は1946年9月に創刊され、1950年12月に廃刊になった。合計6巻27期があり、戦後初期において最も長く刊行されたものであった。『臺灣文化』は「臺灣文化共進會」の機関誌であり、発行者には游彌堅、許乃昌、王白淵、孫萬枝らがいた。編集長は蘇新から陳奇祿に交代したが、発刊の言葉には、「復興後、台湾の文学界は嵐の後の静けさのように……これは災難の後によくある現象であり、衰廃凋落と見なすのではなく、新生に備えるための準備と思ったらいいだろう」とある。創刊当初、総合性の文化雑誌として、文学創作、文芸批評、学術論著などがメインだったが、1949年に時局の変化のため、台湾文化研究の純学術雑誌となった。
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邱永漢『濁水溪』、1955年。河原功寄贈。
邱永漢(1924〜2012)の本名は邱炳南で、台南生まれである。日本の東京大学経済学部卒業で、「臺灣文藝家協會」に参加し、西川満主宰の文芸雑誌『華麗島』『文藝臺灣』などで作品を発表した。日本語による詩作「鳳凰木」「廃港」は、戦後に陳千武によって中国語訳された。
この小説は、邱の自伝的作品として見なされており、1954年に発表され、同年『大衆文藝』から出版された。のちの1955年に日本現代社から出版された。リアリズム的な作風で、陳儀政府が台湾での種々の不始末を暴露し、二・二八事件は共産党によるものであるという国民政府の言い分を批判している。1950年代の白色テロの時代において、文学の形式をとおして、このように国民政府の不始末を批判することはきわめて珍しいことだった。
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『笠』創刊号、1964年。李魁賢寄贈。
この雑誌は1964年6月に創刊され、笠詩社の同人によって主宰されており、そのメンバーには呉瀛濤、詹冰、陳千武、林亨泰、錦連、趙天儀、薛柏谷、白萩、黃荷生、杜國清、古貝和王憲陽らがいた。現在まで発行され続けて五〇年あまりにもなるが、詩壇の全時期を見守ってきた。『笠』創刊当初において既に世界各国の詩作と詩論を翻訳し、日本現代詩の翻訳と紹介も行われた。錦連、陳千武、呉瀛濤なども参加していた。当時のモダニズム、シュルレアリスム、未来派などの思潮を引き起こし、台湾の詩学理論に新しい風を吹き込んだ。
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『臺灣藝術』創刊号、1940年。龍瑛宗寄贈。
この雑誌は1940(昭和15)年3月に創刊され、1944年11月に廃刊となった。合計で55号が発行され、大衆の総合文化雑誌が目指された。同年には『文藝台灣』『台灣』などが発行されており、文壇の活動は大いに活発化した。編集兼発行者の黄宗葵は教授・学者・文芸・芸術・音楽などの文芸関係者を誘い、タイトルにある「総合」に合致するような文化的な雑誌を作った。許丙、辜振甫、乾元藥行、大日本製糖などの工商業界の資金援助を獲得し、毎月の出版が保証された。内容としては主に文学創作であり、1937年に新聞の漢文欄が廃止されて以来、『台灣藝術』は1941年8月号まで漢文欄があった。文学史の言語においてとても重要な作品、例えば呉漫沙「繁華夢」、李逸濤「蛮花記」などの口語文小説が掲載されている。
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有馬敲著、錦連訳、手稿「北極記」。文学台湾雜誌社寄贈。
有馬敲(ありまたかし、1931〜)は詩人である。日本の京都でアジア文化交流センターを設立し、1999年に日本語・英語の海外交流詩誌『海陸風』を創刊した。詩作は中国語、英語、フランス語、ロシア語、スペイン語、韓国語、ギリシャ語など二〇カ国語以上に翻訳されている。錦連(1928〜2013)、詩人。笠詩社のメンバーで、詩の創作および詩の翻訳も行っていた。ここで展示されている詩作には、(一)と(二)があり、散文詩の形式を採っている。詩人は酷寒の北海道を舞台に、現実生活の窮屈さと居辛さ、そして太陽の光も差し込まずに、日々が淋しさと孤独に満ちていることを描いている。